創始するにあたっての心の変遷
「Well Being」発起人
社会福祉士・介護福祉士・介護支援専門員
野村 俊一
徳島に住みながらホームヘルパー養成事業の仕事を、関西圏を中心に行う。この7年間、少しずつ比重を増し、今はほとんどの業務内容を占めている。一回あたり4〜5コースで200名前後を養成する。自分はこれでいいのか?このままの人生でいいのか?と問いつめたのは4ヶ月前の母の死であった。母は、3年の透析と痴呆症状、途中何度も転倒による寝たきりの生活を伴いながら突然逝った。死んだ日も僕はホームヘルパーの仕事で大阪にいた。死に目に間に合わず、闘病中も十分なこともしてやれなかった自分は、悔いもあり、経験がない程の多くの涙を流して泣いた。3人の子供は僕の涙を初めて見たと言った。介護の仕事を経験したこともあり、母のオムツも替えたし入浴や食事の世話もできた。周辺の人はよくやったと言ってくれたが、悔いは日増しに大きくなっていった。母が最後に元気な姿を見せたのは、死の4日前だった。自分に介護が必要な身でありながら、同室の高齢者のベッドに上がっていた。僕は、痴呆から他の人に迷惑をかけていると思い、きつく母をとがめた。しかし、身体が不自由な同室の高齢者はそれを強く否定し、母がいつも助けてくれていると深く礼を述べた。母は、高齢者の手が届かない背中や腰に湿布を貼っていたのだ。僕が病室に行くのは、仕事の後で消灯後も多く母の行動は知らなかった。母は笑顔で何度も励まし、よろよろとベッドにつかまりながら自分のベッドに戻った。ベッドにはいつも自分が目にするいつもの痛々しい母の姿があった。それから4日後、母は帰らぬ人となった。
人の世話を必要としながら、人の手伝いをして喜々とする母の姿は、その死が予測できなかっただけに、死んでからも強烈なイメージとして僕に残った。その姿は、専門職でありながら、そのような仕事でよいのかと僕に問い続けた。
養成してヘルパー資格を取得して現場に就労している人がどれだけいるのか。果たして自分のやっている仕事は社会のために役立っているのか、そうした思いが少しずつ広がって、どうしても日常生活から離れない大きい疑問と自責に変わって行った。就労している人が少ないことは開講時のアンケートでも予測はできた。資格取得の動機は、将来のためと記入する人が多かった。この傾向は、実習施設の多くからホームヘルパー不足が聞かれることから、多くのホームヘルパー養成事業者に共通することだと思われた。今、何をすべきか考えた。きっかけを掴もうと、学生時代に読んで(読まなかったのがほとんど?)書棚に眠っている社会福祉の関連の書物や、若い日少なからず感動した映画のビデオを見たりして、自分が何を求めていくべきかを探した。若い日、感動しなかった部分に感動して涙があふれた。「カッコウの巣の上で」では、精神障害者の自由な生活と人権の行使を求めてたたかいを挑み、死んでいく一人の男の姿があった。「エレファントマン」では、ジョンメリックという先天的奇形に生まれた男性が差別と虐待の生育史を経て、自分が望んだ創作品を完成させ、自己実現の喜びの中で、横たわって寝ることが死に至ることを知りながら、自らその姿勢を選択し死んでいく。「砂の器」では、ハンセン氏病の父を持つ子供の苦悩と社会からの圧迫の激しさを描いている。「ビルマの竪琴」では、一人の青年が戦争によって山野に放置された数え切れない葬を供養するために異国に一人残り仏僧となって一生を終える決意をする。若い日、20年前に見た画面から、その時僕をとらえなかった感動と問いかけがあった。二十年前から、尊敬してきた人物の足跡も詳細に調べてみた。そして、何も知らず、その人々の華やかに知られた結果としての業績から漠然と尊敬していることを知った。その人々の若き日の初志と苦難に満ちた苦闘の日々の積み重ねを年譜と共に具体的に知り、深く感動を覚えた。
その人々は多くいるが、一人は賀川豊彦氏である。世界平和運動や労働運動・消費者生活組合や農協組合・医療組合の生みの親として有名である。しかし、神戸新川の貧民窟に住み込んで行った社会事業の詳細、日本救癩協会の設立や関東大震災で行ったボランティア活動の組織化、大阪市此花区で始めたセツルメント活動には、多くの共鳴する感動と指針があった。
もう一人は、緒方洪庵氏である。適塾の創始者、明治時代の活躍著しい人材を輩出した人物として著名である。しかし、緒方氏は、伝染病として恐れられていた天然痘から、ただひたすら人々を守るために除痘館を設立し、非営利で牛痘種法を確立していった。
僕は、その純粋性に圧倒され、自分を深く省みた。こうしたビデオや人物伝が、自分には模倣できない偉大過ぎることであることは、十分承知しているが、自分は自分に与えられた能力と範囲で、たとえ社会で埋もれる小さな活動であるにしても、理念と誇りを持って創始していくことが大切であるという結論に至った。
自分がこれまでやってきた活動の中で、肩肘はらずに能力の範囲でやれて、社会に役立つことは何かと問い続けた。その過程で出会ったのが、新しく制度化された精神障害者ヘルパー制度と難病ヘルパー制度、そして最近広がりつつある障害者の方が対等な立場で障害者の方の相談にのるピアカウンセラーの制度であった。
こうした制度を活用し、現在2級ヘルパーを取得している人の中で志のある人を募り、精神障害者ヘルパー、難病ヘルパーとして自立を援助していくことはできないか、受講料で得た収益をこうしたヘルパーの普及やピアカウンセリングの広がりに役立てることはできないか、僕は1ヶ月半ぐらい前からそうしたことを考えた。実際に精神障害者の家族会や当事者会、難病患者の支援団体の事務局長や地域の支援団体の責任者の方にも会い、意見や批判にも耳を傾け、構想を練り上げた。
ある精神障害当事者の方は言われた。「ベンチャー企業じゃないですか?」「あなたは精神病のことをどれだけ知ってやるのですか?」難病支援団体の事務局長は「仕事の延長線でやればいいじゃないですか。誤解を必ず受けますよ。」と言われた。しかし、非営利でかつボランティアの手でやりたい、精神障害者で安定している方や、難病の軽度の方が、ホームヘルパー資格や精神障害者ヘルパー、難病ヘルパー資格を取得し、自立するための収入を得る、社会参加の機会を得ることを目的に、症状の不安定な方、重度の在宅療養をしている方々をホームヘルパーとして訪問し、仕事の中でピアカウンセリングを行っていくという観点で最後はご理解頂き、協力関係も芽生え始めている。また幸いにもホームヘルパー養成事業を委託して頂いている団体の役員の方々より力強い賛同を得ることができた。修了生を中心とした組織づくりが進んでいくことになると思う。NPOやボランティア活動、そして就労の機会の情報を修了生の方々に提供していくことも僕の重要な課題のひとつとなると思う。
今、自分の中で仕事としてのホームヘルパー養成事業、NPO、ボランティアとしての精神障害者ヘルパー・難病ヘルパー・ピアカウンセラーの養成が同居していることに葛藤があり、今後も誤解を受けることになると考えている。近い将来、上司や会社にも理解を得て、物事を進めていくべきであるとも考えている。しかし、今は自分の中に芽ばえた心の動きは自分にも止められない。だから誰にも止めることはできない。その結果が、失敗に終わるかもしれないし、後悔することを予測できないわけではない。今は、自分の心に忠実に進むことが、自分が自分であることを自分自身に対して証明していくことに他ならない。
現在NPOの名称は「Well−Being(人権の尊重・自己実現)」としたいと考えている。精神障害者・難病ヘルパー・ピアカウンセラーの普及に留まらず、幅広い医療、保健、福祉の人材育成をNPOやボランティア組織の連携の中で創出していきたいと考えている。そして可能ならば障害や年齢、立場や枠を超えてのノーマライゼーションの理論と実践の普及、社会福祉の向上、障害を持つ方の人権の尊重、自己実現に資するNPO、ボランティア活動の場の新規創出及び連携、普及の支援に結びつけばいいなと夢のようなことを考えている。
「カッコウの巣の上で」の中で、ジャック・ニコルソン扮する男性は、精神障害を持つ人々の僅かな権利を認めてもらうために、人間では不可能であろう大きな大理石のようなものを全力で持ち上げようと試みる。そして失敗し「努力はした。チャレンジした。」と自らに言い聞かせ、新たな試みに挑んでいく。
『最初の一歩をまず踏み出すこと、勇気を持って結果を恐れずに』障害を持つ人も持たない人も住み慣れた地域、家庭の中で普通に共に暮らしながら、人権の尊重と自己実現を目指していく活動を始めていく気持ちを、そのように自分に言い聞かせています。
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